Stop Being Salty

勉強の記録

2022/7/31(日)

ブログを作ったのにとんと更新していない。

映画「わたしは最悪。」(ヨアキム・トリアー監督、2021年)を見てきた。

  • 原題は、The Worst Person in the World らしい。終盤で主人公にたいして「君は最高だ」という言葉がかけられるシーンがあり、タイトルと対照をなす重要なセリフなのかと変に意識してしまったのだが、べつにそういうわけではないらしい。邦題は「わたし」が主語で一人称視点だが、原題は三人称視点なのだ。それは、本作が主人公への共感を意図していないからなのかもしれない。

  • いわゆる「女性の生き方」を提示する映画なのだろう。しかし、主人公の生き方への共感を呼ぶものではなく、生き方の凡庸さ、どんなに頑張っても凡庸の域を抜け出すことはできない、ということを描いているように思えた。

  • 人生への苦悩を描く素材が凡庸だ。親との関係、シングルマザー、セックス、ドラッグ、死、など人生への苦悩を描くうえで使いやすい素材がほとんど全て出そろっている。ふつうはいずれかひとつにフォーカスして物語を組み立てるところが、いずれも同列に並べることで、苦悩の凡庸さが浮き上がる。

  • この凡庸さは、構成によっても強調されている。本作は、序章と終章に加えて12章で構成されており、それぞれの要素に観客の意識が没頭することを防いでいる。さらに、重要なシーンで三人称視点のナレーションが入るが、それも観客の意識を冷めさせる装置のひとつだろう。

  • 環境問題や、フェミニズム運動、芸術の価値といったホット・トピックへの皮肉がところどころで挟まれる。主人公はそういった社会問題に興味を示さない。意識の高い生き方も、当事者にとっては意味があっても、外から見たときには凡庸なのだ。

  • 主人公は、自分の生き方を模索し続ける。しかし、どんなに模索しても凡庸さの域を出ないことを徹底して描き続けているように思われた。そして、その凡庸さを積極的に肯定する要素があるわけでもない。人間とはしょせんこんなものだ、という映画なのではないかな。その凡庸さにたいして、主人公が納得するのか、諦念を抱くのか、再び絶望するのかは、映画の先で観客の想像に委ねられているのだろう。

  • その意味で、鑑賞者によって評価が割れる映画ではないかと思う。個人的には、差し迫って自分の生き方を模索しなければならない年齢や状況ではなくなりつつあり、映画への見方も変わっていくなぁと感じた。おそらく以前であれば、主人公あるいは主人公の恋人に強く共感していたかもしれない。