ストレンジ『国家と市場』を読む (1)
ゆえあって、ストレンジ『国家と市場』を読み始めた。
メモを残しておかないと忘れてしまいそうなので、まずはプロローグと第1章について。
プロローグ ある孤島の物語
ある難破船から孤島に漂着した人々の寓話から、本書の主題が描かれる。この寓話がわりに面白い。いくつかのグループが漂着するのだが、そのうちの学生たちのグループは、長い討論をしがちで、理想主義的なコミューンを建設しようとするという設定にはリアリティがある。ロビンソン・クルーソーのように、孤島に漂着するという設定が寓話ではしばしば用いられるのは、具体的な事情を捨象することができるからで、ようはモデルを構築するのと同じ作業だからなんだな、と思った。
著者がこの寓話に込めた教訓は、「異なる社会はそれぞれの政治経済学を作る場合に、いくつかの価値の中からそれぞれ異なる価値を選び出すということ」(p. 31)。著者が挙げる「いくつかの価値」とは、安全保障、自由、富、正義の4つである。ここで、自由については、「この自由とは、貧困や欠乏からの解放という意味での経済的自由をも含めた広い定義をとる」との但し書きがある。自由権的基本権のみならず、社会権的基本権も自由のなかに含めると理解してよいだろう。
それをふまえて、本書の基本的な姿勢が以下のように示される。
権力の所在が明確でなく、国家間の権力配分も不平等な国際経済では、ある国家が、自己の政治経済学を先に述べた三つのモデルのどれかに立脚させて支配を行う場合には、そしてもしこの国家が十分協力であるならば、この国際経済全体の政治経済に関する哲学を同じ方向へともっていこうと努めるだろう。それが、どのような結論を導くかは、安全保障を追求する軍事力、富を追求する生産力、思想や信念を他人に受け入れさせるに十分な魅力と能力——これらに依存することになろう。しかし、ここで前述の寓話を引き合いに出したのは、その結論は、関係者がそれぞれもつ目的と同様、主観的な判断の領域に属する、ということである。国際政治経済学の理論はその根底を、個人の選好、先入観念、経験などにもつのである。したがって、それがどのような形をとるかは読者しだいともいえる。(pp. 32-33)
第1章を読んだうえで読み返すと、この箇所は、それまでの国際政治経済学はアメリカ中心的だったという第1章での批判を先取りする記述であることがわかる。
第1章 異なる諸価値と諸理論間の紛争
このプロローグに続く「第1部 国際政治経済学の研究方法」は、第1章と第2章で構成されており、第1章は方法論的な前提が議論される。
冒頭で本書の目的は、習得すべき知識の束を示すのではなくて、「読者に、世界経済の政治学をどう考えるか、その方法論を示唆」することであると宣言している(p. 36)。続く箇所での、以下の記述は、本筋とは関係ないが共感できるものだった。
このようにいうのは、一つには、わたくしが高等教育の役割は心を開くことであって、心を閉ざすことではないと確信しているからである。最良の教師とは、自分に無批判的に従い、自分のいうことや書くことを忠実に繰り返す弟子たちや追随者たちの群れを作り出す人びとではない。最良の教師とは、ある主題についてより経験が少なく、また、これを考える機会も少ないような人びとが、より広範な読書、ざっくばらんな討論、そしてより秩序だった物の考え方によって、自分自身の思考を発展させ、訓練を受けていくようにしむけ、助けていく人びとなのである。(p. 37)
とても共感できるのだが、言うはやすく行うはかたしだ。いつの日にか、このような教師になりたいものだ、と遠い目をしながら本論を読み進める。
社会科学における理論
本節では、著者が考える「理論」の定義が与えられる。
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まず、著者によれば、国際関係の理論として用いられがちな以下の四つは、実際は「理論」とは呼べない。
- 因果関係の説明なしに、既知の事実に新しい述語や用語を当てはめただけのもの
- 既知の事実を、新しい分類やくくり方で装って叙述し直しただけのもの
- 教育的効果のために、他分野の概念装置を借用して個人の社会的行動を説明するもの(例えば、囚人のジレンマ、需要曲線、限界効用概念)
- 計量技術を用いているが、常識の追試に終わっているもの
特に、3.について著者は「これらの概念は社会的行動を単純化した装置なのであって、社会的行動を説明する理論とはいえない」、「こうした「教育的」概念を発展させてきた他の学問分野では通常、この種類の仮説が政策担当者に役立つとか、現実生活に実際に適用される可能性とかいうことについては、なんらの幻想ももたれていない」と批判している(p. 39)。経済学批判の文脈ではしばしば「経済人」という前提が非現実的であるという主張がなされるのにたいして、経済学者は「それはモデルにすぎない」と反論する。そのへんの議論にも興味はあるのだが、分け入っても分け入っても泥沼、という感じがするなあ。
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反対に、著者は以下の三点を「理論」の条件として提示する。
「理論は、個人、集団、社会制度の動きについて、単純な説明では解けないような謎や逆説的な現象が現れたとき、これを説明するために用いられる」(p. 40)。
「理論は必ずしも予言をしたり、予測をしたりする必要はない」(p. 41)。自然科学の理論ですら、必ずしも予測を目的としているわけではない。
「理論が科学的であるといわれるのはただ、理論家が合理性や不偏不党性という科学的美徳を尊重し、物事を説明する諸命題を体系的に作り上げようと考えるかぎりにおいてである」(p. 42)。
国際関係の性質
以上のような方法論上の注意喚起がなされているのは、著者の見立てでは、それまでの国際政治経済学は以下のような問題点を抱えているからである。
地域的には、西西問題(先進諸国どうしの関係)、南北問題、東西関係(OECD諸国とCMEA諸国との関係)は議論の対象となっているものの、情報と関心の不在ゆえ東南関係(社会主義国と発展途上国間の関係)は扱われてこなかった。
主題的には、国際政治経済学は政治学の視点、すなわち政府の関心にもとづくものに限定されており、民衆の関心を反映していない。この問題点を克服するには、政治学と経済学を総合する必要があると著者は主張する。というのも、「政治学、経済学双方とも他の学問を前提とする傾向がある」からである(p. 48)。経済学は、戦争や革命のリスクがなく、政府による正義の執行が保障されている状態を前提にしており、政治学は、富の生産については静態的なものとみなして議論を組み立てる傾向にある。多くの場合、現実主義、自由主義、マルクス主義のいずれかのイデオロギーにもとづいて、結論ありきの未来予測が行われている。
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こうした問題点を回避するために、「われわれがなすべきことは、世界経済についての分析方法を見出すことである」(p. 52)。そのための前提として著者は、以下の二点を挙げる。
人間は社会組織を通じて、富、安全、自由、公正などの基本的価値を求めている。
異なる社会においては、これら四つの基本的価値の優先順位をめぐって異なる取り決めがなされる。
それゆえ、著者の定義する国際政治経済学は以下のようなものになる。
わたくしが国際政治経済学の定義を行おうとすれば、それは、生産の全体的なシステム、交換、分配、そしてそれらに反映される価値の組み合せに影響を与える社会的、政治的、経済的取決めに関連している、ということである。〔……〕これらの取決めは人間がつくった諸制度や一連の定められた規則や習慣の組み合せの枠内で起こる人間の決定の結果なのである。(pp. 55-56)
この引用部の後半の事情ゆえに、著者は以下の三つの意味において、歴史的な視点を重視することになる。
「国際政治経済の研究は、原因をつねに重視することを避けられない」(p. 56)
「歴史をあまりに狭く、あるいは党派的に考えてもならない」(p. 56)
未来予測は不可能だが、「国家、企業、個人にとって未来に開かれている諸選択が何か」を問わねばならない(p. 57)。なぜなら、「こうした問いを発することによって、多くの人びとの関心がこの学問にひきつけられる」からである(p. 57)。
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このような著者のめざす政治経済学の問題意識は、ギリシア語のオイコノミアにも含まれるものであり、18世紀におけるフィジオクラットやスミスの「政治経済学」によって探求されたものだという。しかし、「この主題はきわめて複雑でわかりにくいものとなった」ために、マーシャルの『経済学原理』以降「政治経済学」は忘れられてしまった(p. 60)。それを復活させたのが、リチャード・クーパー『相互依存の経済学』(1968)だと著者はいう。
ただし、著者はクーパーに触発されて展開した国際レジームを主題とする研究群には批判的である。すなわち著者によれば、彼らは、政府間の関係の分析に注力し、とりわけ経済的な国際関係を無視してきたうえに、「原理、規範、ルールそして意思決定過程」がどのように形成されているか、すなわち、それらを規定する権力についての「構造的設問」を問わないという欠点をもつ(p. 63)。
それとは反対に、わたくしがここで提唱している研究方法は、政府-市場、そして市場-政府の結びつきを重視することによって、また、安全保障・富・自由・公正という四つの基本的な価値に注意を集中することによって、レジームと同様に非レジーム、また非決定や決定の失敗に関心を向けることになる。この場合に決定とは積極的な政策形成として現れ、国際政治経済の動きに影響を与えてきたし、いまも与えているような決定なのである。(p. 64)
コメント
以上が本書のプロローグと第1章の概要である。基本的価値の社会におけるジレンマを描くプロローグの寓話が、とくに面白かったのが、きちんとメモを残しておこうと思った理由だ。ただし、これらの基本的価値についての定義が、現時点では与えられておらず、この先の章で議論されるのか気になる(自由については、多少の言及があった)。
また、第1章の前半にある自然科学と社会科学の差異を意識した方法論の議論や、第1章後半の「政治経済学」的な関心が失われていった過程についての議論は、社会科学の哲学や経済思想史でよく繰り返されるストーリーである。もうちょっと細かくつっこむこともできるだろう。このへん、個人的には関心があるのだが、底なし沼のような気がするなあ。
民主主義についてのメモ
この半年くらい、必要にせまられて片手間に民主主義についての本を集めてきたが、さっぱり見通しが悪い。ソクラテスのころから論争の蓄積があるのだから見通しが悪くて当然だ(民主主義にあまり関心がないのも理解が深まらない一因)。ほとんど一般書しか手に取れていないし、ちゃんと読めていない本も多いのだが、ひとまず整理しておきたい。
1.現代的な議論
現代的な議論はそれぞれ魅力的だが、いろいろあるので、ここに足をとられていると先へ進めない。全体像を知るためには、この本が役に立つ。中公新書のホームページに掲載されている著者のインタビューは、この本の背景をわかりやすく伝えている。
いろいろある現代的な議論のうち、ダールの「ポリアーキー」はどのような文献でもほぼ必ず言及されるので、おさえておいたほうがよさそうだ。アメリカの政治学者ロバート・ダールは、民主主義の政治体制を定義するために「ポリアーキー(多元支配)」という概念を提唱した。デモクラシーという言葉が、理念を指す場合と制度を指す場合との混同を避けるためである。ダールによれば、政治体制の類型は「自由化(opposition)」と「包括性(participation)」のふたつの指標によって測ることができるらしい。そして、その二つが満たされている政治体制、すなわち「公的異議申し立て」(複数の集団による政治競争)と「参加」(有権者による平等な政治参加)が存在しているような政治体制が「ポリアーキー」である、とのこと*1。
ダールと並んで紹介されることが多いのは、シュンペーターだ。政治参加の側面を強調するダールとは反対に、シュンペーターは政治エリートの競争を重視している。というか、そもそもダールらの議論は、シュンペーターの議論に触発されたもののようだ。ほかにも、ハーバーマス的な熟議民主主義とか、ムフの闘技民主主義など百花繚乱で、素人には足を踏み入れにくい雰囲気だ。ちゃんと原典にあたれていないが、シュンペーターとダールくらいはそのうち読んでおきたい。
また、以下のふたつの論集からは、現代の民主主義をめぐるトピックの幅の広さがよくわかる。それから、宇野(2013)は、プラグマティズムの観点からの民主主義論である。
2.基本的な論点
以上のように現代の民主主義についてはさまざまな議論がなされているものの、現実の政治制度として現代で採用されているのは代議制民主主義である。そのような理念と制度のあいだの関係を扱った新書として以下の二つがある。
杉田(2001)は、①制度と理念どちらが重要か、②二大政党制がもたらす安定性と視野狭窄のどちらのほうが重要か、③デモクラシーは国民という単位を前提に運用されるべきか、④代表と参加のどちらが重要か、といった論点について対話形式で議論が展開される。宇野(2020)は、①多数派の決定か少数意見の尊重か、②選挙か参加か、③制度か理念か、という論点を冒頭で掲げ、歴史的な議論を通して答えを与えている。
また、以下の二つは、政治学の入門的な教科書であり、どちらも現在の代議制民主主義の政治制度を理解することが叙述の中心になっている。
3.歴史的・思想史的な理解
前掲の宇野(2020)が、デモクラシーの歴史的な流れを理解するうえでは全体的な見取り図を与えている。また、佐々木(2007)も同様。とにかく重要なのは、中学校の教科書でも直接民主制と間接民主制が区別されるように、古代に起源をもつ民主制と、それとは異質な代議制という仕組みとが結合したのが現代の民主主義だ、という点。古代の民主制の様子を知るには、橋場(2016)(2022)を読むとよい。
さらに、古代の民主制から近代の民主制への転換について言及されることの多い思想家として、コンスタン、ミル、トクヴィルが挙げられる。
コンスタンは、「古代人の自由と近代人の自由」が、バーリンの「二つの自由」の先駆として有名だ。公的な決定に参加する自由が古代人の自由であり、私的な活動にふける自由が近代人の自由である。近代社会においては、前者を実現させることは困難であるが、後者を享受するためには、統治権力を適切に制御するために選挙による政治参加が必要、というのがコンスタンの議論らしい*2。
ミルは、『自由論』における多数支配への警告や、『代議制統治論』における複数投票制の提案が有名。同様の問題意識に立つ著作として紹介されやすいのが、トクヴィル『アメリカのデモクラシー』がある。ただ、「諸条件の平等」というフレーズに象徴されるように、トクヴィルはデモクラシーをたんなる政治制度としてではなくて、社会的な条件として理解している。この点を解説する宇野(2019)は、トクヴィルだけではなく、現代の民主制を理解するための視点が得られる。
コンスタンとミルは、最近、新しい訳が出てありがたい。ミルはいちおう読んでいるが、コンスタンやトクヴィルもそのうちきちんと読むべきだ。
- コンスタン, バンジャマン(2020)『近代人の自由と古代人の自由・征服の精神と簒奪』堤林剣・堤林恵訳、岩波文庫
- ミル、J. S. (2019)『代議制統治論』関口正司訳、岩波書店
- ミル、J. S. (2020)『自由論』関口正司訳、岩波文庫
- 宇野重規(2019)『トクヴィル——平等と不平等の理論家』講談社学術文庫
また、権左(2020)は民主主義とナショナリズムが結びつく過程を描いた思想史、福田・谷口(2002)は概念史的な論文集のようだ(どちらも未読)。
4.制度的・数理的な理解
現代の代議制民主主義の制度的特徴を把握するための著作として、以下がある。また、ピトキン(2017)は、代表論に関する古典的な研究である。
- 待鳥聡史(2015)『代議制民主主義——「民意」と「政治家」を問い直す』中公新書
- 空井護(2020)『デモクラシーの整理法』岩波新書
- ピトキン、ハンナ(2017)『代表の概念』早川誠訳、名古屋大学出版会
それから、選挙制度については以下が手に取りやすい。現行の国政選挙の比例代表制で用いられているドント式の意味については、西平(2001)がわかりやすかった。
- 西平重喜(2001)「比例代表制の計算方法とその意味」、『選挙研究』16巻、pp. 114-124
- 加藤秀治郎(2003)『日本の選挙——何を変えれば政治が変わるのか』中公新書
- 砂原庸介(2015)『民主主義の条件』東洋経済新報社
- 大山達雄編(2022)『選挙・投票・公共選択の数理』日本応用数理学会監修、共立出版
さらに、社会的選択論の入門書としては以下のふたつが有名。いちおう経済学部出身のわたしとしては、馴染みやすい議論なのだが、べつに得意分野というわけでもなく…。特に、佐伯(2018)は正義論なんかも出てくるので、そのうちきちんと読みたいところだ。
こうして整理してみたところで、「わかった」という気には程遠い。きちんと読めていない本も多い。とにかく、現代の議論を理解するにも、歴史的な背景を理解するにも、民主主義にはさまざまな面があり、どの側面に注目するかによって方向性がぜんぜん変わる、ということだけがわかった。また、さいきん邦訳された以下の二冊も面白そうである。民主主義は本業とはあまり関係の薄いトピックだが、時間を見つけて勉強していきたい。
2022/8/15(月)
墓参をして、寿司を食べた。暑いなか歩いてお寺までの道のりだったので、全身汗びっしょりになった。
2022/8/13(土)
台風だったので、先輩と会う約束を取りやめて、いちにちじゅう家の中にいた。
2022/8/12(金)
引き続き在宅バイトを進めた。今回の案件は思ったよりも作業に時間がかかる。
2022/8/11(木)
銭湯に行って昨日までの二泊三日を振り返ったり、知人から頼まれていた在宅バイトを進めたりした。