2022/8/8(月)-2022/8/10(水)
某合宿へ参加し、小中学生の面倒を見る後輩たちの面倒を見てきた。という書き方は長老然としていて傲慢かもしれないが、じっさい最年長者であったし、現役だったころとは違う種類の感情を抱くようになった気がする。つまり、数年前と比べて、抱く感情の強度が弱まると同時に、種類が増したように思う。
年齢を重ねると、いろいろの選択の結果として可能性が狭まる。さらに、若ければ努力の末には理想的な状況が手に入ると安易に思いがちだが、経験を積むとそうではないことがわかる。もちろん、努力すればそのぶん目指した事柄は達成される。しかし同時に新たな課題も出現し、理想的状況には常に到達しない。そのことに気付くようになり、自分の可能性に無限の期待をかけることができなくなる。
そういうわけで、かつては真っ直ぐで強くて一面的な感情を原動力に活動していたものだなあ、と若い子を見て思っていた。自分の可能性が無限にあり、その無限の可能性に無限の期待をかけることができることは、何らかの理想を信じ、それへ向けて強い感情を抱くことを可能にする。そうした感情を抱くことは幸せなことだが、かといって、そうした感情を抱けなくなった今が不幸なわけではなかった。
というのも、可能性が限定されることにより得られる「思慮深さ」のようなものがあると感じたからだ。あまり未来に期待したり、過去にこだわったりすることがないので、その時その場で必要なことに集中できるようになる気がする。人が感じる幸せはフロー概念であり、満足こそがストック概念であると最近考えるようになった。感じる幸せの量はそのときどきで変化していくが、そのときどきの自分の行動や結果が納得のいくものかどうかという満足は蓄積されていくだろう。
二泊三日を通して抱いたのは、何らかの理想をもとめる大文字の感情ではなく、その時その場で自分の果たすべき役割は最低限は果たせたという感覚だった。「わたしにできることはこれくらいだ」という、つつましさのようなものが身についた気がする。良い面も悪い面もあったが、それは下の子たちが受け止めていくものだ。その場に立ち会えてよかったと思う。
かつてわたしより上の世代がもっていたカルチャーを、わたしよりも下の世代は着実に受け継いで、それを継承していこうとしているように見えた。わたしたちの世代は、それに憧れつつも、それとは別の方向性を模索した世代だったので、感慨深かった。それぞれの個人や世代が一定のカルチャーをもっていること、なんらかのカルチャーが世代を超えて継承されていくこと、にわたしはなんとなく関心があるな。
2022/8/7(日)
出掛けるとついつい衝動的に本を買ってしまうが、節約に努めるべきだと思った。前に買った本を読み終わる前に新しい本を買ってしまうのも、完全に悪いことではないが、あまりよいことでもない。
2022/8/6(土)
懐かしの飯田橋へ行き、用事を済ませてきた。懐かしのカレー屋とブックファーストとつけ麵屋が無くなっていた。
白石一文『君がいないと小説は書けない』(新潮文庫、2022年)を読んだ。ひさしぶりの長編小説で、読み終わるのがもったいないと思わせる小説だった。本作は自伝的小説であり、ストーリーそのものが動き出すのは後半2/3くらいに入ってからで、それまでは著者なりの回想と思索が続く。「まくらのほうが本題より長く、そして同じくらい面白い」というユーモアがあると思う。なぜ私は読書が好きなのかを再認識させられた小説だった。
小学生の頃の私は、たいそうな読書家で2日に3冊くらいのペースで読んでいた。読む本の登場人物は中高生が描かれていることが多く、本を読む理由のひとつは自分の知らない世界を疑似体験できることにあった。かつてほどのペースでは読めなくなった高校生の頃に「もう自分が読んできた本の登場人物の年齢を追い越してしまった」ということに気付き、その年齢に追いつけた嬉しさと、同時に彼らの世界から遠ざかってしまった寂しさとを感じたことがある。
それ以降は読む小説のほとんどが、実年齢より上であってもほぼ同世代の目線で読めるものばかりだった。そうした小説には、小学生の頃に感じていたような、未知の世界を教えてくれるという楽しさはない。しかし、既知の世界にたいして、より厳密な言語化を可能にしてくれるという楽しさがあった。小説は、日常の一断面を切り取ったり、時には極限的な状況を用意したりする。それを読むことで私は、日常で感じたことがある些細で曖昧な感情や思考を増幅させ、追体験し、理解し直すことを楽しんでいた。
未知の世界を疑似体験するという楽しさと、既知の世界を言語化していくという楽しさの両方を、この『君がいないと小説は書けない』からは得ることができた。本書は、著者の自伝的小説ゆえに語り手が60歳を超えた小説家であり、その視点から死や、人生における時間や、他者との関係性などについての思索が展開される。人生の後半戦は私にとって未知の世界であると同時に、人付き合い、身近な人の死、理想の追い方など著者が思索を展開する事柄には何らかの形で私も直面したことがある。
2022/8/3(水)
昨日とほとんど同じ流れのいちにちを過ごした。
常に活字を読みたいという気持ちがあるのだが、エネルギーと時間がなければ活字は読めない。エネルギーと時間に余裕があるときに読みたくなるのは、読まなきゃいけない文章ではなく、読んでも読まなくてもどちらでも構わない文章のほうだ。読まなきゃいけないものには、読まなきゃいけない理由がある。読まなきゃいけない理由があると判断したのは、そこに何が書かれているか、それにどんな意義があるかを事前にだいたい知っているからだ。それゆえ目新しさがない。
エネルギーと時間があれば、読まなきゃいけないものだけをせっせと読めるかといえばそうではなく、読んでも読まなくてもいいものを読むことにも時間とエネルギーを割いてしまう。活字を読みたくなるのは、目新しいことを欲しているからだろう。だから、何が書いてあるか知りたいという気持ちで、読んでも読まなくてもどちらでもよいものにも手が伸びてしまう。読まなきゃいけないものだって、読んでみれば、新しい気付きがあるのだけれど。
2022/8/2(火)
読むべき本と論文を読み、その合間に読みたい本を読むという、幸せないちにちだった。夏の暑さには耐えられないが、夕焼け空に映える雲が綺麗だということだけは夏のよいところだね。
彩瀬まる『不在』(角川文庫、2021年)を読んだ。面白く読んだが、私には読む視点を設定しにくかった。
おそらく、「愛っていうのは、気持ちの悪い言葉だよ。使われるのは、基本的にそうじゃないものをそう見せようとするときだ。そしてその意味はどれだけ表現を変えたって、突き詰めれば誰かに干渉したいってことだ」という一節がもっとも力をもっている(p. 218)。何が愛なのか、という問いを主人公(と読者)に投げかけ続けたうえでの、答え合わせという性格をもつ台詞だからだ。この言葉が説得的に響くように物語が組み立てられている。
語り手である主人公からみた他の登場人物にたいする評価が、余白なく丁寧に描かれている。兄以外の登場人物は、主人公にとっての立ち位置が変化するか、主人公の予想を超える行動をとる。その意味では、兄の存在が本作を読むうえで重要なのかもしれない。
台詞の位置づけにせよ、登場人物の立ち位置にせよ、丁寧につくられているがゆえに読み方が固定されており、作品が読者に開かれていないように感じてしまう。以前、著者の『あのひとは蜘蛛を潰せない』を手に取ったが、途中で読むのを止めてしまったことがある。丁寧につくられているということは、読みやすさを生むと同時に、頭を使わずに読めてしまうということでもある。