Stop Being Salty

勉強の記録

2022/8/1(月)

夏の暑さへの耐性が落ちている。もしくは、耐えられないほどに夏が暑くなっている。たぶん実際には、その両方なんだろう。早く秋になってくれ、と常に思っている。冬眠する動物がいるように、暑くなりすぎると活動停止する生物はいないのか。もしいるのなら見習いたい。暑すぎてそれくらいしか考えられない一日だった。

2022/7/31(日)

ブログを作ったのにとんと更新していない。

映画「わたしは最悪。」(ヨアキム・トリアー監督、2021年)を見てきた。

  • 原題は、The Worst Person in the World らしい。終盤で主人公にたいして「君は最高だ」という言葉がかけられるシーンがあり、タイトルと対照をなす重要なセリフなのかと変に意識してしまったのだが、べつにそういうわけではないらしい。邦題は「わたし」が主語で一人称視点だが、原題は三人称視点なのだ。それは、本作が主人公への共感を意図していないからなのかもしれない。

  • いわゆる「女性の生き方」を提示する映画なのだろう。しかし、主人公の生き方への共感を呼ぶものではなく、生き方の凡庸さ、どんなに頑張っても凡庸の域を抜け出すことはできない、ということを描いているように思えた。

  • 人生への苦悩を描く素材が凡庸だ。親との関係、シングルマザー、セックス、ドラッグ、死、など人生への苦悩を描くうえで使いやすい素材がほとんど全て出そろっている。ふつうはいずれかひとつにフォーカスして物語を組み立てるところが、いずれも同列に並べることで、苦悩の凡庸さが浮き上がる。

  • この凡庸さは、構成によっても強調されている。本作は、序章と終章に加えて12章で構成されており、それぞれの要素に観客の意識が没頭することを防いでいる。さらに、重要なシーンで三人称視点のナレーションが入るが、それも観客の意識を冷めさせる装置のひとつだろう。

  • 環境問題や、フェミニズム運動、芸術の価値といったホット・トピックへの皮肉がところどころで挟まれる。主人公はそういった社会問題に興味を示さない。意識の高い生き方も、当事者にとっては意味があっても、外から見たときには凡庸なのだ。

  • 主人公は、自分の生き方を模索し続ける。しかし、どんなに模索しても凡庸さの域を出ないことを徹底して描き続けているように思われた。そして、その凡庸さを積極的に肯定する要素があるわけでもない。人間とはしょせんこんなものだ、という映画なのではないかな。その凡庸さにたいして、主人公が納得するのか、諦念を抱くのか、再び絶望するのかは、映画の先で観客の想像に委ねられているのだろう。

  • その意味で、鑑賞者によって評価が割れる映画ではないかと思う。個人的には、差し迫って自分の生き方を模索しなければならない年齢や状況ではなくなりつつあり、映画への見方も変わっていくなぁと感じた。おそらく以前であれば、主人公あるいは主人公の恋人に強く共感していたかもしれない。

さいきん読んだ本たち

勢いでブログを開いてみたが、どう書いたらよいのかわからない。もともとの目論見では、ブログをモチベーションに読書の量や質が上げられたらと思っていた。なので、ひとまず今回はさいきん読んだ本を並べてコメントしてみる。慣れてきたらちゃんとした読書ノートとかも投稿できたらいいなあ。しばらくは、こんな感じで手探りの記事が続くことでしょう。

まずは柔らかい本から。 多和田葉子『地球にちりばめられて』講談社文庫、2021年。

  • とても美しい小説だった。主人公(のひとり)はスカンジナビア諸語の話者ならだれでも通じる人工言語「パンスカ」を自ら考案し、喋る。「パンスカ」の人工言語らしさは、日本語では体言止めを多用することで表現される。これがとっても心地よい。
  • 章ごとに語り手が変わるという演劇的な構成だ、と「解説」で池澤夏樹も指摘している(p. 343)。それぞれの時間軸とリズムで語る各章の語り手たちは、最終章で一堂に会する。各章の語り手が異なることで、実際にはすべて日本語で書かれているのに、あたかも各章それぞれ違う言語で書かれていて最終章から日本語に切り替わったかのような感覚があった(伝わるかしら、この感覚)。最終章へ向けて、文にドライブされる感覚。

遠野遥『改良』河出文庫、2022年。

  • 第二作『破局』で芥川賞を受賞した遠野遥の第一作が文庫化されたので、読んでみた。『破局』でも感じたが、世代的な感覚というものがあるとするならば、遠野(の描く主人公)とわたしはきっと同世代に属する。微妙に主人公の理路に共感できてしまう不気味さがある。何に共感しているのか、もう少し考えたい。一見すると主体性の薄さのように見える、社会規範に距離を取りつつも背かない傾向のようなもの?
  • 「誰かが大きなへらを使って私の脳みそを掻き混ぜているような、そういう感覚があった」という表現が二度、序盤と終盤に一度ずつ、繰り返されている(pp. 18, 117)。読んでいて、わあ、読者サービスだあ、と嬉しくなった。

『地球にちりばめられて』には『星に仄めかされて』という続編が、遠野遥には『教育』という第三作がある。いずれ読みたい。さて、他にちょっと堅めの(でも柔らかく書かれている)本も二冊読んだ。

吉田量彦『スピノザ——人間の自由の哲学講談社現代新書、2022年。

  • ですます調で語りかけるタイプの新書は、なんだか冗長で苦手だった。しかし本書は違う。軽快なですます調でスピノザの生涯と思想を紹介してくれる。思想内容のみならず、伝記的な背景にも紙幅が割かれているのが特徴。しかも、残された資史料から伝記的事実を推定するプロセスが、知的興奮に満ちている。まるでミステリーのよう。おかげで、推定の確からしさを吟味しながら、スピノザの人となりに親しむことができる。
  • もうひとつの特徴は、著者じしんも「おわりに」で述べているように、スピノザの主著『エチカ』のみならず、『神学・政治論』や『政治論』における宗教・政治思想の紹介にも努めていること(p. 394)。新書には珍しく出典が明記されているため議論の流れを拾いやすく、伝記的背景も相まって、スピノザが生涯にわたって展開した思考を追跡することができる。「形而上学の世界に遊んでいた脱俗の哲学者」という通俗的なイメージが覆された(p. 132)。
  • すなわち、『エチカ』で展開される人間本性論の鍵概念「コナートゥス」は、『神学・政治論』(や『政治論』)における「考えたいことを考え、考えたことを言う自由」を擁護する政治思想の論拠になっている(pp. 205-206, 296)。スピノザの政治思想について、國分功一郎『近代政治哲学』やアイザイア・バーリン『自由論』への言及も興味深く、また、ジョナサン・イスラエルが急進的啓蒙の原点にスピノザを据えたくなるのもわかる気がする(pp. 201, 220)。加えて、スピノザは『政治論』では人びとが自由の意義に自覚するための方策として、経済活動の浸透や公教育機関の改善に期待していたという点も啓蒙思想っぽい(pp. 361-362)。

ウルリケ・ヘルマン『スミス・マルクスケインズ——よみがえる危機の処方箋』鈴木直訳、みすず書房、2020年。

  • 本書も『スピノザ』と同様、三人の主人公であるスミス、マルクスケインズの伝記的叙述にも章が割かれており、親しみやすい。著者はジャーナリストとのことで、なぜ経済学者たちは金融危機を予見できなかったのかという身近な問いから始め、新古典派経済学批判という視点からスミス・マルクスケインズという一つの流れを明快に提示する。現代の経済学の支配的なパラダイムである新古典派は静学的な均衡にのみ関心を集中させるため、スミス・マルクスケインズが認識した資本主義の動学的な側面を把握できない。
  • ただし、訳者も指摘するように、本書の新古典派批判はやや単純化されている(p. 393)。本書の魅力はスミス・マルクスケインズという明確な線を打ち出したことにあるのだ。一般的に思想史では新古典派批判はキャッチ―で、その問題点を指摘することは有意義だが、単なる戯画化に陥らないような目配りも必要だろう。新古典派を乗り越えようとする試みは制度論や行動経済学など理論的にもなされているはず。それに対して思想史の意義は、そういった理論的な試みの推進に資するような方向性や全体像を描くことなのかなあ。
  • スミス・マルクスケインズが向き合った貨幣という存在がいかに不思議なものかがよくわかる。言語と同じく人為的存在なのだ。また、ケインズのライバルと目されがちなハイエクの存在感は本書では薄く、フリードマンのほうが注目される。ハイエクの立ち位置は微妙で面白い。

なぜかマルクスの生地トリアー(トリーア)が『地球にちりばめられて』では重要な舞台になるのだが、当然『スミス・マルクスケインズ』にも登場して面白かった。こうして書いてみると、意外と2500字くらいの分量になった。もう少し気軽に書いてみてもよいのかも。